ポンコツ店長の奮闘記

店長の日々の出来事や葛藤の日記にしていきたい

叔父の死から一年

テンチョです。


※今回は考察しながらリアルタイムで思い付きを綴っていますので、セリフっぽい言い回しをご了承ください。


昨年に叔父が亡くなりました。



我が一族はとてもしぶとい人間が多いです。
父方祖父母は亡くなりました。(祖父は私が生まれる前に死にました)
母方祖父母は90前後で健在。



2年前にバイクNSR250Rで牧之原の田舎に寄ったとき。

エンジンがかかりにくいという話を叔父(違うほうの叔父)と従兄弟にしていたら。


「ヒロちゃん(テンチョのこと)!ポンポン(バイクのこと)のプラグが被ってるら!」と、90過ぎの爺さんが言い当て、5分ほどでプラグを外しやがりました。


恐るべき90歳のクソジジイ!



後は当該叔父を除く叔父叔母従兄を含め、割と近しい親族は全員生きています。
しかも元気。



近しい親族とはいえ叔父とは亡くなる2年前に会った程度ではありますが。


ですから本当に近しい人間が死んでしまうという経験をしたことが、テンチョは且つて一度もありません。


友達ですら過去に失った(死ぬ)経験がありません。


リアルで死んでしまった人の知らせや葬式で泣いたこともありません。




映画やドラマなどでよく聞くセリフがあります。
「(故人が)死んでしまっても、私たちの心の中で生き続ける。」
↑ ↑ ↑
これはいったいどういう事なんだろうと、いつも疑問に感じます。
テンチョのケーススタディが乏しいからなんだろうと思っていました。



しかし考えてみると、有名人の死であったり、映画ドラマでの登場人物の死で悲しくなったり、時には涙したりということがあるので、それは経験に入るのではないかと考えました。



最近悲しかったのは煉獄さんです。
その前は志村けんさん。


ま、煉獄さんは置いておいて、志村けんさんは若かりしころから、最近の番組まで思い出せます。
基本的には底抜けに明るい印象ですね。
怒っている表情でさえも、コント内でのオチに向かう為のフリで怒った表情をしているシーンだけです。


うーん確かに志村さんは私の記憶の中では生きています。
そういうこと?いつでも思い出せるという意味?生前のことを記憶として忘れないということ?
よくわからない。



で、あるならば幼少期の子供が両親を亡くし、両親のことを思い出せないとしたら、それは心の中で生き続けてはいないということなのでしょうか?



更に、で、あるならば両親の記憶のない人は両親から何の影響(遺伝子という意味ではなく)も受けていないということなの?



うーん、それは流石に違うとは思う。
記憶がなくても亡くなるその瞬間まで与えられた愛情や、育てられた環境は記憶はなくても影響を受けたはず。



その受けた影響が心の中で生き続けるということなのかもしれませんね。
記憶にはなくても、お母さんのお腹のなかで過ごした影響でさえ。



その影響により、無意識にでもあなたが寛容になれたり、譲れないことを形作っているとするならば、心の中に生き続けていると言えるのかもしれません。


どう?お盆らしいでしょ?



以上です。